WEBレポート/「蓼科高原チェルトの森」別荘地事始

私的な楽園を蓼科へ

  

その頃、茅野市の観光開発は、白樺湖やビーナスライン沿いへ集中していたこともあり、古田山近辺はまったくの手付かず。槻木の人たちは、利便性の悪さを指摘されるのではないかと思っていたのだが、
 「我々が造りたいのは、ゆったりとくつろげる高原の楽園なんです。俗化させたくないのでレジャー施設から離れているほうがむしろ好都合」と幹部社員から言われ、視点の違いに驚いたという。
 そして昭和40年、『蓼科高原チェルトの森』の前身となる『南蓼科台別荘地』のプランニングが始まり、昭和42年から開発工事に着手。湧き水が豊富だからと言っても、開発が原因となり近隣の田畑に引く水が不足するようなことがあってはならないので、まず初めに農業用溜め池を建設。現在の『槻の池』が誕生した。

 

昭和43年、いよいよ別荘地分譲がスタートし、八ヶ岳山麓らしい変化に富んだ地勢を持つ[流れ清水街区]から販売を開始。水に恵まれた別荘地に因む瑞々しい街区名がつけられた。
 昭和48年には、八ヶ岳連峰を望みながら爽快な高原ゴルフが楽しめる『南蓼科カントリークラブ』がオープン。別荘オーナーに自分の庭感覚で気ままにゴルフを楽しんでもらいたいという割り切ったコンセプトで造られたハーフコースで、ゴルフバッグを乗せたカートを引っ張りながらプレーするスタイルは新鮮だったという。

時代の要求に応えるために

   

昭和五十年代の後半に入ると、中央自動車道の完成や特急あずさ号のスピードアップなど都心からのアクセスが飛躍的に向上し、原村や清里などのペンションブームも追い風となって高原ライフへの関心が以前にも増して高まりはじめた。
 こうした時代背景のもと、『南蓼科台別荘地』の事業運営も転換期を迎え、開発総面積を約438万㎡に拡大すると同時に、社名を鹿島リゾート(株)に、別荘地名を『蓼科高原チェルトの森』へ一新。ネーミングはイタリア語の音楽用語「コンチェルト(協奏曲)」をモチーフに、人と自然の調和を願って名付けられた。
 昭和62年には、ゴルフ場を9ホール増設し、18ホール・全長6,742ヤード・パー72の『鹿島南蓼科ゴルフコース』へと生まれ変わった。
 分譲地も多様化するニーズに応えるべく、『流れ清水街区』に加え『柳川街区』と『鳴岩街区』を新たに造成。樹木が成長し落ち着いた佇まいを見せる『流れ清水街区』とはイメージの異なる明るく開放的な街区が仲間入りした。

 

平成に入り、週休2日制が定着し余暇時間が増えはじめると、別荘の利用スタイルもこれまでの夏限定から通年利用へと大きく変わっていった。春の新緑、秋の紅葉、冬の銀世界…、蓼科の美しい四季の風景に改めて感動するオーナーも多く、休日だけでは飽きたらず、リタイヤ後に別荘地で暮らしはじめるオーナーも増え始めた。
 『チェルトの森』は、外部からの進入路が一本しかなく、通過車両が無いためセキュリティ面での安心感が高い。観光地の喧噪とは無縁の静寂な環境は、リタイヤ後都会を離れて悠々自適に暮らしたいと夢見る人々の心をつかんだ。

 

別荘地の誘致から今日まで、50年以上の長きにわたり、『チェルトの森』を見守ってきた堀内さんは、「別荘地ができたことで、多少なりとも地元を潤すことができました。別荘生活に夢を抱き、都会から数多くの人がやって来ました。先祖から受け継いで来た古田山が、これほど多くの人に歓びを提供してくれるとは、本当に有り難いことです。」と語る。
 槻木の皆さんにとって『雲をつかむような話』だった別荘地の誘致は、『夢をつかんだ話』として、これからも語り継がれて行くに違いない。


取材・文/山内泉

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流れ清水街区造成工事着工に際し行われた地鎮祭
(昭和42年)


カラマツの伐採後4,5年しか経っていない別荘地。
八ヶ岳の大パノラマが望めた(昭和40年代中頃)


カートを自分で引くセルフプレーが好評だった
オープン間もないゴルフコース


別荘地のほぼ中央に位置する「槻の池」は、
今やチェルトの森のシンボル的な存在となっている


トーナメントも開催される本格リゾートコースに進化した「鹿島南蓼科ゴルフコース」